日本における真の国際人とは
2007-10-15
大学に入ってから自分の文章力の無さを痛感する。他学部に比べ法学部はレポートを書くことをほとんど求められていないため自発的に磨かないとマズイ。このブログにはそういう意味での訓練という側面もある。まずは自分を戒める意味で高校時代の作文を紹介したい。あれから2年。この作文以上のものを書く自信がないのが痛い…。まずはこのレベルまで自分を戻そう。
これは同志社の国際交流エッセイに応募した作文です。
『21世紀の日本における真の国際人とは』
最近、TVや新聞では連日のように国際化の必要性が問われ、その波に流されるように多くの学校が英語教育に特化したり国際科なるものを新設したり、そして多くの親たちが自分の子供を早い段階で「とにかく海外へ」という安直ではあるが切実な願いの基に留学やホームステイ等、形は違えど海外へと送り出している。私も幼いころから海外志向の強い両親の影響で幼いころから英語教室に通ったり、毎年のように海外旅行に連れて行ってもらったりといった幸運に恵まれていた。その後も英語教育に強いとされているこの同志社香里に入学し、中学時代にはアメリカに1ヶ月のホームステイ、高校では国際科に籍を置き1年生でフィリピンへボランティア活動、三年時には幼いころから意識していた留学もさせてもらっている。そういう意味では私は他の同年代の人と比べて国際交流の経験は確かに豊富ではあるだろう。その分、自分は国際人として将来海外に出て行くという漠然としたイメージは持っていたし、期待もされていただろう。だが1年間の留学生活を通して強く感じた疑問は、私を含む日本人が描いている国際人像と、それを目指す上でのプロセス(具体的には、文部科学省が中心になり進めている小学校における早期の英語教育等が挙げられる)が、本当に正しいのかというものである。
この疑問に対して考えるまえにまずは、はっきりと国際人という言葉を理解する必要があるだろう。広辞苑によると「広く世界的に活躍しているひと」と定義されている。非常に曖昧な印象を受けるのは私だけだろうか?日本語の根幹を成す広辞苑ですら、この言葉が指すものを明確には定義できていないと思えてならない。個人的な見解はでないが、おそらく世界や諸国家など広く外の世界を指す「国際」に生きる「人」であるから、国際+人=国際人、といういかにも日本語的な処理が行われた事は想像に難くないだろう。ちなみに英語には「国際人」を直接的に指す単語は存在しない。強いて挙げるなら”cosmopolitan”という地球人や世界主義があるものの、これを世界的な視野を持ち考えられる人間と解釈すれば、前述の広辞苑の定義とは大きく性格の異なるものになってしまう。つまり国際人や国際化といった言葉の全てに図々しくもついてまわる「国際」という単語が、17世紀から19世紀中頃までの鎖国によって国際感覚を失くしてしまった日本人が作り上げた、何の定義すら持たないただの概念に過ぎないのではないだろうか?
はっきりと確立された定義をも持たない、しかも人によって解釈の異なる様な不安定な言葉を目標にして作り上げたシステムはやはり極論として、見かけや聞こえは良くても中身カラッポという事になってもおかしくはないし、私は現実として今の日本にそのような危機感を感じている。とは言っても、私は海外志向から派生する英語教育や留学や語学研修の様なプログラムといった一連の方針について全否定したい訳では決してない。実際に自分が通ってきた道である分、他の人よりそれらが持つ重要性や与えてくれた影響は理解しているつもりだ。私がここで問題にしたいのは、本当にそれらの「外へ外へ」というスタンスだけで良いのか、という事である。
では国際人になるために、具体的に日本人はどうすれば良いのかという問いに対する私の答えは一見矛盾しているようだが、自らの文化、ここでは日本文化を改めてしっかりと見つめなおす事にあると私は考えている。真の国際人とは、自分の文化とアイデンティティーを明確に把握し、それを違った文化圏に住む人に常に提示できる状態にある人の事を指すのではないだろうか。それができて初めて、相手の文化と、それに基づき形成された相手の生き方と考え方が理解でき、そうなって初めて本当の意味での相互理解が可能になるはずである。
分かり易い例を挙げよう。間違い探しは2つの明確なビジョンがあるという前提の基、それらを理解し見比べることで違いを認識するゲームである。それ故、当然だがどちらか一方が欠けてしまえば成立しない。つまり基準となる絵がない以上は他にどんな絵をみても違いは見えない。多くの日本人はこの絵を持たないか、もしくは持っていても自分自身でどんな絵か見えない状態にあると思われる。自分が自信を持って判断の基準としうる絵がないために、何を見ても違いに気づかないか、自分勝手な思い込みしか見えない。同時に、相手に見せる絵もない。ゲームとして永遠に成立しない状態だ。
言うまでもないが、ここでの絵とは自分、もしくは文化である。つまり自分も知らない自分や文化を相手に、自分を通して伝える事は不可能である事が容易に理解できるだろう。だからこそ闇雲に外国で多くの“絵”を見てくれば、それだけで国際人になれるという考えは根本的に間違っていると言わざるを得ない。外に出て何かを得て、相手にもなんらかの影響を与えようとするのなら、自らの内なる文化に対してある程度の理解は不可欠なのである。
私も含めてだが、自分のルーツであるはずの日本文化に対してあまりにも無知である人ほど、日本という国自体にも愛着がなく早く海外に出たがる傾向にあるのではないか?「日本ではもう何も学ぶ事がないから、早く海外に出ないと自分の可能性が無駄になる」という考え方だ。私も留学前までは正直、そういう自惚れの持ち主であった。しかし、実際に海外での生活をスタートさせてみると、自分が留学先の人に対して伝えられることがあまりにも少ないことに気がついた。「日本の侍はなぜみんな同じ髪型なの?」、「日本のイラク戦争に対する基本的なスタンスは?」などと問われても即座に明確な答えを彼らに対して提示できない事に悔しさを感じたと同時に、たった1年で相手の全てを知ろうと考えていた事が恥ずかしくもあった。自国の文化も知らない人間が海外に少し行ったぐらいで得うる物は、せいぜいガイドブックや文献を調べれば見つかる程度のものだろう。そんなものを日本に持ち帰っても何の役にも立たないはずだ。かなり極論かもしれないが私には、それが現実である気がしてならない。留学の成果として、英語が話せるようになったとか、友達がたくさんできた、とかいうレベルの話をしているのではない。そういう要素も国際人には必要かもしれないが、それは条件であっても本質にはならないだろう。
その事に早い段階で気づき方向修正できた私はラッキーだったと強く思う。以後、私は他の国の文化を知ろうとする場合にまず、日本におけるそれについて調べるか考えることを自分に課した。それによって一つの事柄に対する見方が大きく広がりを見せたのは言うまでもない。そういう観点に立てば、留学などのプログラムは素晴らしいものだろうと断言できる。他国の文化に対して直接触れるのと同時に、他国から見た日本とその文化も感じられるからである。このような機会は日本でどれだけ語学をしようが、国際科で勉強しようが簡単にあたえられるものではない。自国の文化を客観的に見て知る事は、それほど難しいのであろう。日本のように島国であるが故に、他国の存在を感じにくい国であれば尚更だ。
実際に日本から出て分かったことだが、外から見る日本という国は世界から見て、除々に孤立している気がしてならない。日本と本当に友好関係に在る国はどこだろうか?アメリカはどうだろう?いやアメリカから見た日本は外交戦略上有力な同盟国ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。次にあがるのは中国だろう。歴史上、最も日本文化に深く影響を与えた国であるのは間違いないだろう。だが昨今の反日運動をみていても明らかなように、中国を含むアジア全域からの反日感情は未だに我々が思っていた以上に根強いようである。加えてヨーロッパにおけるEUのように国家間の利害関係を超える枠組みによって守られているわけでもない。今の日本からもし経済力という力が無くなった場合には、やはり日本は世界から見放され、取り残されるのだろう。それは資源や食料のほとんどを自給できず、海外からの輸入に依存している日本にとっては絶望を意味する。日本という国は極東の小さな島に過ぎず、一人ではなにもできない以上、他国と共存こそが唯一の道なのではないか?250年もの間、強固に自立していた江戸幕府がペリー来航に始まり、一気に崩れた事からもそれは明らかだ。日本にはやはり国際化が必要不可欠で、そこに暮らす我々日本人もやはり国際人である必要があるのだろう。表面ではなく異文化の本質を見極めたうえで、それらを日本文化に還元し、より魅力的な文化を作り世界に対して提示する。これには相手の真似をするのではなく、強いて一言で表すのであれば「文化の融合」となるだろうか。
これを実現するためには前述したように、自分を再認識する必要があるが、それを蔑ろにした教育システムが主流なのは事実である。だが全ての日本人にそれが成しえない訳では決してない。現在でも歌舞伎や能に代表される洗練された日本文化は世界中から尊敬されているだろうし、それを伝える人も同様だ。したがって問題なのは、個人や小規模な集団単位ではそれが有効だと確認され保護されているにも関わらず、国家という大規模になると隅に置かれて、教育システムの核に組み込んで国の指導原理とは成りえない点にあるのではないか?
今、日本は戦後の脇目もふらない効率主義による、独りよがりの歩みを止めて、後ろを振り返るべき時期に差し掛かっているはずだ。そしてそれを理解し実行できる人間こそが真の国際人であり、無計画に外に出る必要はそれほどないだろう。そういった人材を積極的に育成、そして活用するシステムなしには日本の国際化は成し得ない。
という事で。この作文で自分のスタンスを一度アウトプットし整理できたことが今の国際交流活動につながってるんでしょうね。
いつか同じテーマでもう1度エッセイを書きたいな。きっと違うものができるはずやし。

