宗教と法
2007-11-29
最近、私(無宗教)とは決定的に異なる価値観をもった人と出会った。彼はある宗教の熱心な信者であるが、彼は日本の法制度では危険な行動も彼自身の宗教観に基づいて躊躇なくやってみせる。いくら信仰の自由が保障されているとはいえ、どこまで許されるのか?法規範との相関は?
興味深いテーマだ。
以下判例等には触れずある程度考察する。ちなみにこれを学部のレポートにするなら憲法判例のエホバ商人の輸血拒否事件なんかを引用すれば使えるのかな?
そもそもどのような宗教に属していようと、その行動を現実的に規制するのは法である。我々にとっての法とは日本法となる。その日本法はヨーロッパ大陸法であるドイツ法をベースに形成されている。ドイツは知っての通りキリスト教の影響が色濃く、当然ドイツ法にも制定の段階からキリスト教的思想が現れていると言えるだろう。だからこそ今回、法思想をあえてテーマとして設定し、法と宗教との相関を考察する意義があるだろう。
さて、私が考えるにあらゆる宗教はその信者に特定の道徳観を与えている。例えば「モーセの十戒」はその代表例であり、「モーセの十戒」は現在に至るまでキリスト教徒の道徳観に強い影響を与え続けている。
しかしモーセの時代ほど社会は単純ではなく、様々な利害が混在する現在、昨今の宗教間対立を例に挙げ宗教倫理による支配が機能しない事に疑問の余地はない。やはり社会秩序を保持するのは法の役目であり、宗教は必要ないのだろうか。これに答えるため、次に法について考えたい。
道徳はどこまで法によって強制されるのか?これについては近代自由主義の代表であるミルが「自由論」の中で、国家が強制力を用いることができるのは、ある人物が他者に危害を加える場合のみとしている。これは危害防止原理とよばれ、本人の幸福のために危害がなくても国家の介入を良しとするパターナリズム(公権的温情主義)を痛烈に批判している。つまりミルの見解は、正常な判断能力を持つ成人には本人の利益になるとしても、他人に危害を与えない限りは意思に反して強制的には介入しえない、というものだ。
また同性愛や売買春といったものをどこまでパターナリスティックに規制すべきか、という問題もある。法の規定はあるがその実態とは異なっており、あまりにもひどい場合に規制されている。国家が介入するとなると自由主義国家のリスクを考える必要があり、すべてを規制するには国家権力がいくらあっても足りず、自由が無くなってしまう。
この自由と法規制のギャップを埋めるものとしてこそ、各宗教が示す道徳観の存在意義を現在にも認められないだろうか。「国家権力が介入できないレベルにおける道徳観の統制」という機能を宗教に認める事で、現在もそしてこれからも法と宗教とはバランスを保ち共存し、社会秩序に寄与していく事が十分可能であると結論付けられ、その重要性は宗教に対する帰属意識の非常に低い日本においても同様であるだろう。
うーん。これベースで1本レポート書きたいな。おもしろそう。
けどゼミは会社法orz

