慈善と偽善
2009-06-30
最近、なかなか色んな活動が充実してきました。夏を目の前に、やっと頭が温まってきた気がします。
今日はもっぱら明日の大事な打ち合わせと、例のエッセイで頭がいっぱいでした。
どちらも自分は何ができるのか、これを考える作業だったわけです。
そこで常に頭を支配してしまうこと。
慈善と偽善
この境界に悩んで思考がSTOPしてしまう事が多々あります。
ボランティア、特に「世界の恵まれない人達に愛の手を」系のものに対して、懐疑心を持って接してしまう。
もちろん、自分らがコンビニで無駄にガムを買う100円で、多くの子供にワクチンがいきわたるとか。
世界的に見て、ぶっちぎりに豊かな自分たち日本人にとって、そういう事を考えて実行するのは非常に重要な事だと思う。
だけど、なんとなくかわいそうという同情心が支配する、何も考えてない何となくの慈善活動は何か違うなと思うわけです。
要するに中途半端な慈善は、もはや偽善を通り越して、悪なんじゃないかと思うんです。
例えばその金で学校を建設して、その国の次代を担う子供たちに教育機会を与える。というなら凄く意義があると思う。
その金や活動が最終的にどう貢献するのかまで考えて初めて慈善やと思うんです。
例えば海外のストリートチルドレンに金渡すのとか究極の思考停止です。
金をそのまま渡して何になるんですかね?
かわいそうって気持ちは理解できる。
「同情するなら金をくれ!」的なオファーを丸のみするのは、あまりにバカだと思ってしまいます。
そういう行為って、相手から考える力を奪い、ただの施し待ちの人間を作り出してしまうことにならないでしょうか?
実際、何の解決にもならない。
かわいそう。
そういう気持ちは相手を一方的に下に見てるだけ。
意識してなくても絶対優位だからこその同情。
そういうチャリティとかボランティアなら自分は関わりたくない。
グラミン銀行総裁のユネス氏もチャリティ(慈善)というのは人々を自立させられなくなるので悪いものだ、と述べていた。
「恵んであげる」のは、相手が「かわいそうなもの、自分より下なもの」という意識があることの表れである。チャリティを施すことによって、相手から自尊心や自立心を奪い、結局その人達のためにならないと。
概ね同意したいと思う。
だから後輩が盛り上がってる関係上、あんまり強く反対できないながらも細々と反対意見を表明してきた、例のチャリティフリーマーケット企画とか意味が良く分からない。
何の為に?そこが抜け落ちたチャリティに意味なんてないと思う。
国際交流じゃなくて、国際協力的な事がしたいんだったら、もういっそのこと同じ大学のSIVIOに収益全部あげちゃうとか。
本気で自分らで取り組むなら、その金を元にDESA内に国際協力部隊を新設するとかね。
良く分からんけどね。
単純にケチをつけるだけの先輩になりたくないので、対案でも数案持って、また後輩に話聞きに行ってきます。
まあ、そういう発想が出てくるだけ、僕ら以上に問題意識のある後輩って事ですよね。
実際は頼もしい。
こんなところで知らない人に陰口しても仕方ないので、自分は開催までひたすら本人達にチクチク言い続けて、ディスカッションしたいと思いますけどね。
そーいえばこういう論点って、以前の記事でも書いたと思いたポイントやけど、確認の為に再掲。
そーいえばこの直後に他大学の友人と釜が埼を訪問して、ディスカッションした覚えがあります。懐かしい。
正直、何度か書いたけどボランティアって考えてやらないと効率悪いと思うんです。
俺が高校生の時参加したフィリピンボランティアもそう。
日本人20人が20日働いて1件の家を作る。
渡航費だけで200万かかってる。
この200万あれば現地の労働者を雇って、もっと多くの家がたつ。
本当にフィリピンの事だけを考えるなら、この20人が20日間同じように日本で建設現場バイトすればこれも何百万になる。同じ労働に対する金銭的リターンが日本の方が何倍も高い。
そうすればその金を使って現地の労働者…(以下省略)
そこに援助側の自己満足を感じた。
結局は自分の都合なのかと。
所詮は恵まれた人達が自己成長とか経験とかそういう尺度で行ってるんじゃないかと。
(もちろん、そういう活動に教育的側面があるから一概に効果を金だけで測れないけど)
俺は『貢献=目的』っていう概念よりは『貢献=結果』としたい。
ようは貢献するぞって丸腰ノープランで乗り込むんじゃなく、別のモデルとビジョンを持って自分も得をして結果的に貢献してた、の方が自然。
だからビジネス的で持続可能な貢献こそが必要だと信じてる。
頭ではこう考えるわけです。
ただ。
自分は日本という世界屈指(少なくとも今までは)の経済大国に生まれながら、海外からのボランティアに命を救われてきたっていう、なかなか複雑な存在です。
阪神大震災の時に、日本各地どころか世界各国から集まったボランティアスタッフ、更には普段は怖がれる存在の暴力団の方々まで、懸命に復興活動を手伝ってくださいました。
震災直後は、リアルに食事とか水を配給してもらったりとか。
実際に命を救われてる側からすれば、相手の意識とかそういうもの以上に、当座の救援がとにかく有難いという想いだけが単純に残ります。
そこに「いやーこのアメリカ人わざわざ来ちゃって…、そんな金があるなら物資だけたくさん送ってくれたらええのに。」とか費用対効果を気にした事は一切思わないはずです。
それが同情100%であっても、感謝の気持ちは何も変わらない。
そう考えると、何でもいいから慈善活動ってのも全然間違ってないのか?
さすがにそれは違うのか。
問題意識を持って、考え続ける事が大切?
どんだけ考えても、結局はフィリピンボランティア以降、ボランティアを毛嫌いしてきた自分のように、そこに実行がないのは最悪だし。
…。
いやー長い。
やっぱり良く分からないなあ。
何でも現場を見ないとなんとも言えないですよね。
とりあえず思うまま書きなぐってみた。
とにかく今は。
応援するだけならバカでもできる、どこに導くかを想定しながら応援する方がスマートだな。
そう思うし、そうありたいわけです。
単純にサポートで終わるなら、他の誰でもできるんだから。
何事も目的ありき。
PGじゃないけど、そういうことなんでしょうね。
よしよし。
今はエッセイ頑張って書こう。

